東京スカイツリー - 2012.05.16 Wed
22日に公式会場する東京スカイツリー。機会があったので、16日に登ってきました。これまでも近くに行ったことはあるのですが、付帯施設が完成してみると、まさに堂々たる威容です。634メートルのタワーをほぼ垂直に見上げる我が姿はまったくのお上りさんです。
入場して高さ350メートルの天望デッキへ。いきなり東京タワー(332.6メートル)越えです。東京タワーができたのは1958年。それから半世紀余。スカイツリーはスケールだけでなく、設備、内装ともに豪華なうえにシックです。最近元気がないとはいえ、日本の国力を感じさせます。垂直に地上が見通せるガラスの床では、安全とはわかっていても、ガラスの上に足を踏み入れるのに、みなさんすこし躊躇します。
ガラスの床に座って。残念ながら地上にはピントがあいませんでした
さらに、450メートルの天望回廊へ。エレベーターを降りてゆるやかな回廊を登るしつらえは、なかなかの配慮です。隅田川が蛇行するすがた。遠く東京湾を越えて見える千葉県市原や五井の工業地帯。東京が一望のもとに見渡せます。東京タワーが小さく、低く見えます。
天望デッキで
浅草寺や上野公園以外に、スケールの大きなアトラクションの少ない下町に出現したスカイツリーは、さまざまなショップとレストランを備えているだけでなく、浅草という観光名所とのシナジー効果が期待できそうです。東武鉄道というどちらかというと地味な企業がつくった世紀の新名所が、東京下町に新たな魅力を付け加えました。周辺、そして東京、日本の商売繁盛を祈ります。
入場して高さ350メートルの天望デッキへ。いきなり東京タワー(332.6メートル)越えです。東京タワーができたのは1958年。それから半世紀余。スカイツリーはスケールだけでなく、設備、内装ともに豪華なうえにシックです。最近元気がないとはいえ、日本の国力を感じさせます。垂直に地上が見通せるガラスの床では、安全とはわかっていても、ガラスの上に足を踏み入れるのに、みなさんすこし躊躇します。
ガラスの床に座って。残念ながら地上にはピントがあいませんでした
さらに、450メートルの天望回廊へ。エレベーターを降りてゆるやかな回廊を登るしつらえは、なかなかの配慮です。隅田川が蛇行するすがた。遠く東京湾を越えて見える千葉県市原や五井の工業地帯。東京が一望のもとに見渡せます。東京タワーが小さく、低く見えます。
天望デッキで
浅草寺や上野公園以外に、スケールの大きなアトラクションの少ない下町に出現したスカイツリーは、さまざまなショップとレストランを備えているだけでなく、浅草という観光名所とのシナジー効果が期待できそうです。東武鉄道というどちらかというと地味な企業がつくった世紀の新名所が、東京下町に新たな魅力を付け加えました。周辺、そして東京、日本の商売繁盛を祈ります。
三宅久之さん引退 - 2012.03.31 Sat
きょうは、テレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」の収録でした。特別の日です。約10年、この番組の看板の一人だった政治評論家の三宅久之さん(82)の引退スペシャルだったからです。
三宅さんは新聞記者としての大先輩ですが、私にとっては1985年に、やはりテレビ朝日系列の夕方のニュース「ニュースレーダー」のキャスターになったときの前任者という特別のご縁があります。あいさつにいったとき、「楽しんでおやりなさい」といってくださったのを覚えています。
収録のとき、阿川佐和子さんに思い出を聞かれ、この話をしたとき、モニターの中で
三宅さんが温顔で「そうだったね」とうなずいていました。カラリとドライに怒ることのできるじいさん(失礼)。東京都副知事・作家の猪瀬直樹さんは「家長」ということばをつかっていました。
長い記者生活の経験がきちんと時間軸として蓄積され、高齢になるまで、かならずファクトに基づく話をしておられました。前半の収録に出演したあと、後半の収録をやはり政治評論家の屋山太郎さんと見ていて一致したのは「権力者との個人的関係をひけらかす」評論家ではなかったということでした。
「ポンスケ」「デコスケ」と歯に衣きせぬ三宅さん。私も「君も政治記者やってたのに、よくそんなばかなことがいえるね」としかられたことがありますが、まったくいやな感じではありませんでした。私ももうじいさんですが、三宅さんのようなじいさんと一緒に仕事ができなくなるのはとてもさびしいです。
オンエアは4月2日午後7時から「ビートたけしのTVタックル3時間スペシャル」(テレビ朝日)です。
三宅さんは新聞記者としての大先輩ですが、私にとっては1985年に、やはりテレビ朝日系列の夕方のニュース「ニュースレーダー」のキャスターになったときの前任者という特別のご縁があります。あいさつにいったとき、「楽しんでおやりなさい」といってくださったのを覚えています。
収録のとき、阿川佐和子さんに思い出を聞かれ、この話をしたとき、モニターの中で
三宅さんが温顔で「そうだったね」とうなずいていました。カラリとドライに怒ることのできるじいさん(失礼)。東京都副知事・作家の猪瀬直樹さんは「家長」ということばをつかっていました。
長い記者生活の経験がきちんと時間軸として蓄積され、高齢になるまで、かならずファクトに基づく話をしておられました。前半の収録に出演したあと、後半の収録をやはり政治評論家の屋山太郎さんと見ていて一致したのは「権力者との個人的関係をひけらかす」評論家ではなかったということでした。
「ポンスケ」「デコスケ」と歯に衣きせぬ三宅さん。私も「君も政治記者やってたのに、よくそんなばかなことがいえるね」としかられたことがありますが、まったくいやな感じではありませんでした。私ももうじいさんですが、三宅さんのようなじいさんと一緒に仕事ができなくなるのはとてもさびしいです。
オンエアは4月2日午後7時から「ビートたけしのTVタックル3時間スペシャル」(テレビ朝日)です。
1年遅れの卒業式 - 2012.03.24 Sat
きょうは法政大学の学位授与式(卒業式)でした。法政大学は毎年、3月24日に日本武道館で卒業式を行います。卒業式に出席した学生たちは歩いて市ヶ谷の大学キャンパスに戻り、そこで学科ごとに学位記を授与されます。なぜかこの日は毎年雨が多く、和服に袴の女子学生たちはけっこう難渋するのです。ことしも雨がうらめしい卒業式でした。
私は日本武道館には行かず、私が指導教員を務めた韓国人女子学生の修士学位記授与に立会いました。中国人の女子学生も和服、袴姿なのが印象的でした。韓国人女子学生は国に帰って仕事をさがすそうです。そのあと法学部国際政治学科の学士学位記授与に立会いました。ゼミの学生たちの顔を一堂に見られる最後の機会です。学生たちも社会に巣立つ前のひとときを同級生と楽しんでいました。
すると、去年卒業したはずのS君がそばに立っていました。S君は私のゼミではありませんでしたが、講義のあとキャンパスを一緒に歩きながらいろいろ質問する熱心な学生です。きいてみると、卒業式に参加したのだそうです。彼らの卒業式は東日本大震災と原発事故のあおりで中止になりました。同級生たちと別れを惜しむ余裕もなく社会に巣立っていった学生たちを招いたのは「大学総長の味な計らいです」(S君)とうれしそうでした。
それだけではありません。「社会に出て1年たってからの卒業式は感動的でした。社会人生活を経験したおかげで、ふつうに4年生の3月に卒業するよりも、きょうは1年前までの学生生活をより深く思い返すことができましたし、社会に出たということの意味もよくかみしめることができました」とS君はいいます。
ほかにも、一回りも二回りもスケールの大きくなった1年前の卒業生の顔がありました。そして何よりうれしそうだったのは、ことしの卒業生たちでした。私のゼミ生たちは、大好きだったゼミの先輩たちと一緒に卒業を祝えるという稀有な機会に恵まれました。昨日は後輩たちによる追い出しコンパで私もみんなと大騒ぎして、いささか疲れていたのですが、すばらしい卒業式に立ち会えた満足感でその疲れもどこかにいってしまいました。彼らのこれからの幸福を祈ります。
私は日本武道館には行かず、私が指導教員を務めた韓国人女子学生の修士学位記授与に立会いました。中国人の女子学生も和服、袴姿なのが印象的でした。韓国人女子学生は国に帰って仕事をさがすそうです。そのあと法学部国際政治学科の学士学位記授与に立会いました。ゼミの学生たちの顔を一堂に見られる最後の機会です。学生たちも社会に巣立つ前のひとときを同級生と楽しんでいました。
すると、去年卒業したはずのS君がそばに立っていました。S君は私のゼミではありませんでしたが、講義のあとキャンパスを一緒に歩きながらいろいろ質問する熱心な学生です。きいてみると、卒業式に参加したのだそうです。彼らの卒業式は東日本大震災と原発事故のあおりで中止になりました。同級生たちと別れを惜しむ余裕もなく社会に巣立っていった学生たちを招いたのは「大学総長の味な計らいです」(S君)とうれしそうでした。
それだけではありません。「社会に出て1年たってからの卒業式は感動的でした。社会人生活を経験したおかげで、ふつうに4年生の3月に卒業するよりも、きょうは1年前までの学生生活をより深く思い返すことができましたし、社会に出たということの意味もよくかみしめることができました」とS君はいいます。
ほかにも、一回りも二回りもスケールの大きくなった1年前の卒業生の顔がありました。そして何よりうれしそうだったのは、ことしの卒業生たちでした。私のゼミ生たちは、大好きだったゼミの先輩たちと一緒に卒業を祝えるという稀有な機会に恵まれました。昨日は後輩たちによる追い出しコンパで私もみんなと大騒ぎして、いささか疲れていたのですが、すばらしい卒業式に立ち会えた満足感でその疲れもどこかにいってしまいました。彼らのこれからの幸福を祈ります。
民主党抗争はチキンゲームに - 2012.03.18 Sun
動きのとれなかった政治がやっと動きそうです。2月25日の野田佳彦総理と谷垣禎一自民党総裁の秘密会談に続いて、岡田克也副総理が3月に入っての自民党幹部との接触で、「大連立」を持ちかけたというニュースが明らかになったためです。与野党すくみあい、与党内すくみあいで、凍りついたような政治に方向が見えてくるかもしれません。
読売新聞が伝えるところでは、民主党の小沢一郎元代表グループは「大連立は『小沢切り』が目的だ」(幹部)と反発を強めているそうです。野田・谷垣会談が明るみに出たときに、いち早く反応したのは小沢氏本人で、「不快感」を表明したとのことです。
小沢さんと、その支持グループの反応は妥当なものでしょう。野田総理が国会で「(小泉純一郎元総理のように)抵抗勢力を作って物事を進める手法はとりたくない」といいつくろっても、岡田副総理が「私は誰といつ会ったとか、どんな話をしたのかまったく言わないことにしている」と大連立話をぼかしてみせても、この二人のベクトルは「小沢一郎という政治家との最終対決」に向かっているからです。
昨年末からことしにかけて目立ったのは小沢一郎氏の動きでした。政治資金規正法違反事件の裁判の形成が徐々に有利に展開してきたのを受けて小沢氏は動き始めました。ことし9月の代表選で復権し、みずからが総理にならなくても政治の実権を奪取するために小沢氏にとってどうしても必要なことは、衆議院での民主党の圧倒的多数を守ることです。豪腕小沢といえども、いまや手負いの身です。小沢マジックも色あせてきました。民主党と自民党を足して二で割って小沢新党をつくる力はもはやないのです。
解散総選挙をやられたら目もあてられません。前回総選挙で大量当選した小沢チルドレンはじめとする水ぶくれ民主党議員は、マニフェストのうそが露呈し、尖閣、沖縄、東日本大震災で醜態をさらしてしまったことで、選挙区を歩けば罵声を浴びる体たらくです。次回の総選挙で再び国会に戻って来られるのは何人ぐらいでしょうか? そうなると、とにかく解散総選挙をさせないことが議員バッジを守る道です。そこで、小沢元代表と利害が一致します。大義名分は「前回総選挙での民主党の約束を守る」ことと増税反対です。マニフェストをあくまで実行すると叫んでみても、もはやあまり信用したり、期待したりする人はあまりいません。効果があるのは「増税反対」です。社会保障と税の一体改革という苦い薬を飲まされる時期が迫れば、迫るほど、「増税反対」の旗印は有効です。何より、野田総理の党内基盤を不安定にしておけば、解散総選挙回避という時間かせぎができるからです。先週末からの消費税増税関連法案の閣議決定に向けた民主党の合同会議は、小沢グループにとっては、その主戦場です。
いまのところ、自民党に野田総理が持ちかけたという「話し合い解散」も岡田副総理が持ちかけたという「大連立」にしても、自民党は乗り気ではありません。野田総理、福田総理の真意にまだ疑いを持っているからですし、この局面で、大連立や話し合い解散に乗っても与野党の対立軸がぼけるだけで、選挙に不利との計算があるからです。
これに対して、民主党内への影響は小さくありません。「敵」であるはずの自民党に対して政権主流が持ちかけた「大連立」「話し合い解散」は法案成立のためというより、小沢氏、小沢グループの生命線である「増税させずに時間かせぎ」の戦略を破壊するものだからです。それだけではありません。岡田氏は10日のテレビで、消費増税に反対している小沢氏について「世論とか野党の状況いかんだ」と述べ、賛成に転じる可能性があるとの見方を示しました。しかし、仮に岡田氏のいうように小沢氏が前言を翻して小沢氏自身のための時間稼ぎに成功したとしても、小沢氏に付き従っている議員たちにとっての打撃は致命的かもしれません。小沢氏はこの20年間、政治的主張を変えてきても生き残る政治的パワーがありましたし、増税問題については、この間もことばを選んできました。しかし、「増税をつぶす」と正面から公言してしまった小沢グループの議員たちが選挙区でどのような反応に会うのかは想像に難くないからです。そうなれば、彼らが小沢氏の統制に従い続けるかどうかも注目されます。その意味で、野田+岡田の仕掛けはなかなかの破壊力を持つ可能性があるといえそうです。民主党内の抗争はいよいよ最終的なチキンゲームに発展しそうです。負けるのはブレた方でしょう。
読売新聞が伝えるところでは、民主党の小沢一郎元代表グループは「大連立は『小沢切り』が目的だ」(幹部)と反発を強めているそうです。野田・谷垣会談が明るみに出たときに、いち早く反応したのは小沢氏本人で、「不快感」を表明したとのことです。
小沢さんと、その支持グループの反応は妥当なものでしょう。野田総理が国会で「(小泉純一郎元総理のように)抵抗勢力を作って物事を進める手法はとりたくない」といいつくろっても、岡田副総理が「私は誰といつ会ったとか、どんな話をしたのかまったく言わないことにしている」と大連立話をぼかしてみせても、この二人のベクトルは「小沢一郎という政治家との最終対決」に向かっているからです。
昨年末からことしにかけて目立ったのは小沢一郎氏の動きでした。政治資金規正法違反事件の裁判の形成が徐々に有利に展開してきたのを受けて小沢氏は動き始めました。ことし9月の代表選で復権し、みずからが総理にならなくても政治の実権を奪取するために小沢氏にとってどうしても必要なことは、衆議院での民主党の圧倒的多数を守ることです。豪腕小沢といえども、いまや手負いの身です。小沢マジックも色あせてきました。民主党と自民党を足して二で割って小沢新党をつくる力はもはやないのです。
解散総選挙をやられたら目もあてられません。前回総選挙で大量当選した小沢チルドレンはじめとする水ぶくれ民主党議員は、マニフェストのうそが露呈し、尖閣、沖縄、東日本大震災で醜態をさらしてしまったことで、選挙区を歩けば罵声を浴びる体たらくです。次回の総選挙で再び国会に戻って来られるのは何人ぐらいでしょうか? そうなると、とにかく解散総選挙をさせないことが議員バッジを守る道です。そこで、小沢元代表と利害が一致します。大義名分は「前回総選挙での民主党の約束を守る」ことと増税反対です。マニフェストをあくまで実行すると叫んでみても、もはやあまり信用したり、期待したりする人はあまりいません。効果があるのは「増税反対」です。社会保障と税の一体改革という苦い薬を飲まされる時期が迫れば、迫るほど、「増税反対」の旗印は有効です。何より、野田総理の党内基盤を不安定にしておけば、解散総選挙回避という時間かせぎができるからです。先週末からの消費税増税関連法案の閣議決定に向けた民主党の合同会議は、小沢グループにとっては、その主戦場です。
いまのところ、自民党に野田総理が持ちかけたという「話し合い解散」も岡田副総理が持ちかけたという「大連立」にしても、自民党は乗り気ではありません。野田総理、福田総理の真意にまだ疑いを持っているからですし、この局面で、大連立や話し合い解散に乗っても与野党の対立軸がぼけるだけで、選挙に不利との計算があるからです。
これに対して、民主党内への影響は小さくありません。「敵」であるはずの自民党に対して政権主流が持ちかけた「大連立」「話し合い解散」は法案成立のためというより、小沢氏、小沢グループの生命線である「増税させずに時間かせぎ」の戦略を破壊するものだからです。それだけではありません。岡田氏は10日のテレビで、消費増税に反対している小沢氏について「世論とか野党の状況いかんだ」と述べ、賛成に転じる可能性があるとの見方を示しました。しかし、仮に岡田氏のいうように小沢氏が前言を翻して小沢氏自身のための時間稼ぎに成功したとしても、小沢氏に付き従っている議員たちにとっての打撃は致命的かもしれません。小沢氏はこの20年間、政治的主張を変えてきても生き残る政治的パワーがありましたし、増税問題については、この間もことばを選んできました。しかし、「増税をつぶす」と正面から公言してしまった小沢グループの議員たちが選挙区でどのような反応に会うのかは想像に難くないからです。そうなれば、彼らが小沢氏の統制に従い続けるかどうかも注目されます。その意味で、野田+岡田の仕掛けはなかなかの破壊力を持つ可能性があるといえそうです。民主党内の抗争はいよいよ最終的なチキンゲームに発展しそうです。負けるのはブレた方でしょう。
シュプリッツァーとスプリッツァ - 2012.02.13 Mon
オーストリアなどヨーロッパで愛飲されているワインと炭酸の飲み物シュプリッツァーをかつてご紹介しました。hagitani.blog51.fc2.com/blog-entry-193.html
知人の経営するレストランで供したところ、「女子会でよく出る」と好評なうえ、昨年暮れには某有名レストラン雑誌に「2012年に流行する」と書かれていたのですが、どうやら、こんなことも背景にあったのかなと思わせるできごとがありました。
2月8日、キリンディスティラリー社がWineSpritzer(ワインスプリッツァ・白)という新商品を発売したのです。「来た来た」とばかりに、我が家で飲んでもらった友人などにお知らせしました。私も、「飲んでみなけりゃね」と近くのスーパーでプロモーション価格108円也を購入して飲んでみました。
感想は・・・・・・。シュプリッツァーとスプリッツァはどうやら別種の飲み物のようです。オーストリアでは、シュプリッツァーの成分構成は法律で決まっています。Laut § 4 der Weingesetz-Bezeichnungsverordnung ist ein G'spritzter (auch Gespritzter, Spritzer) ein Getränk, das aus mindestens 50 Prozent Wein und höchstens 50 Prozent Soda- oder Mineralwasser besteht. いわく、50%以上のワインと50%以下の炭酸水で作らなければシュプリッツァーとしてワインリストに載せてはならないのです。キリンの製品の原材料はワイン、ウォッカ(!)、糖類、酸味料、香料、チャ抽出物とあります。ワインを単純に炭酸水で割った本場ものとはちがい、キリンのこの商品はいわゆる「〇〇サワー」の一種と思えばよいでしょう。学生や若い人のコンパには向いているかもしれません。
「シュプリッツァーとスプリッツァは別物か」などと思っていたら、こんなことを思い出しました。30年前のドイツで、でした。当時のドイツでは、フランスやベルギーのビールを「ビール」として売ることはできませんでした。理由は法律それも16 世紀のバイエルン公国の法律です。「ビールはホップと麦芽と水のみでつくること」。これが現代ドイツまで受けつがれてきていました。たまたまチャンネルを合わせた公営テレビの「Pro und Kontra(賛成、反対)のテーマがこの「ビール純粋令」(Reinheitsgebot)は非関税障壁ではないか、というものでした。
ドイツ語のフランス語表記の商標
コーンやコメを原料に加えているベルギーやフランスのビールが槍玉に上がる中で、フランスはアルザスのストラスブールの大ビール会社クローネンブルグKronenbourgの当主が出てきて、言ったものです。「私たちは17世紀からビールをつくっていますし、私たちの製品はビールです」。クローネンブルグが創業した1664年、ストラスブールが神聖ローマ帝国の帝国自由都市、すなわちドイツでした。このファミリーはフランス国民になってもドイツ起源の誇りをもってビールをつくってきました。古くメソポタミアを起源とするビールはいまや世界中で醸造されています。ドイツ語圏に7年暮らし、ケルンのケルシュ・ビールを一番好む私ですが、ドイツビールは日本では重く感じます。一般論でいえば、「ビールは地元のものが一番美味しい」と思います。ドイツではドイツビール、フィリピンならサンミゲル、イスラエルならマカベ、韓国ならOB、沖縄だったらオリオン・・・。やっぱり、それぞれ風土にあうように開発された地元のものが一番なのです。
マカベ・ビール
さて、キリンが日本人向けに開発したスプリッツァはどうでしょうか? 私の感じでは、ワインの香りがほとんどせず、代わりに金木犀のような香料の香りが前に出たところで、シュプリッツァーとスプリッツァの違いは「ドイツビール」と「その他のビール」の差よりも大きいような気がしました。
私は、やっぱりワインと炭酸水だけで行きます。ワインは赤です。
知人の経営するレストランで供したところ、「女子会でよく出る」と好評なうえ、昨年暮れには某有名レストラン雑誌に「2012年に流行する」と書かれていたのですが、どうやら、こんなことも背景にあったのかなと思わせるできごとがありました。
2月8日、キリンディスティラリー社がWineSpritzer(ワインスプリッツァ・白)という新商品を発売したのです。「来た来た」とばかりに、我が家で飲んでもらった友人などにお知らせしました。私も、「飲んでみなけりゃね」と近くのスーパーでプロモーション価格108円也を購入して飲んでみました。
感想は・・・・・・。シュプリッツァーとスプリッツァはどうやら別種の飲み物のようです。オーストリアでは、シュプリッツァーの成分構成は法律で決まっています。Laut § 4 der Weingesetz-Bezeichnungsverordnung ist ein G'spritzter (auch Gespritzter, Spritzer) ein Getränk, das aus mindestens 50 Prozent Wein und höchstens 50 Prozent Soda- oder Mineralwasser besteht. いわく、50%以上のワインと50%以下の炭酸水で作らなければシュプリッツァーとしてワインリストに載せてはならないのです。キリンの製品の原材料はワイン、ウォッカ(!)、糖類、酸味料、香料、チャ抽出物とあります。ワインを単純に炭酸水で割った本場ものとはちがい、キリンのこの商品はいわゆる「〇〇サワー」の一種と思えばよいでしょう。学生や若い人のコンパには向いているかもしれません。
「シュプリッツァーとスプリッツァは別物か」などと思っていたら、こんなことを思い出しました。30年前のドイツで、でした。当時のドイツでは、フランスやベルギーのビールを「ビール」として売ることはできませんでした。理由は法律それも16 世紀のバイエルン公国の法律です。「ビールはホップと麦芽と水のみでつくること」。これが現代ドイツまで受けつがれてきていました。たまたまチャンネルを合わせた公営テレビの「Pro und Kontra(賛成、反対)のテーマがこの「ビール純粋令」(Reinheitsgebot)は非関税障壁ではないか、というものでした。
ドイツ語のフランス語表記の商標
コーンやコメを原料に加えているベルギーやフランスのビールが槍玉に上がる中で、フランスはアルザスのストラスブールの大ビール会社クローネンブルグKronenbourgの当主が出てきて、言ったものです。「私たちは17世紀からビールをつくっていますし、私たちの製品はビールです」。クローネンブルグが創業した1664年、ストラスブールが神聖ローマ帝国の帝国自由都市、すなわちドイツでした。このファミリーはフランス国民になってもドイツ起源の誇りをもってビールをつくってきました。古くメソポタミアを起源とするビールはいまや世界中で醸造されています。ドイツ語圏に7年暮らし、ケルンのケルシュ・ビールを一番好む私ですが、ドイツビールは日本では重く感じます。一般論でいえば、「ビールは地元のものが一番美味しい」と思います。ドイツではドイツビール、フィリピンならサンミゲル、イスラエルならマカベ、韓国ならOB、沖縄だったらオリオン・・・。やっぱり、それぞれ風土にあうように開発された地元のものが一番なのです。
マカベ・ビール
さて、キリンが日本人向けに開発したスプリッツァはどうでしょうか? 私の感じでは、ワインの香りがほとんどせず、代わりに金木犀のような香料の香りが前に出たところで、シュプリッツァーとスプリッツァの違いは「ドイツビール」と「その他のビール」の差よりも大きいような気がしました。
私は、やっぱりワインと炭酸水だけで行きます。ワインは赤です。
中国は脅威か? - 2012.01.26 Thu
十数年前のことです。私が朝日新聞のボン特派員だったころ、官庁街で旧知のドイツ外交官に会いました。中国屋でもある彼の質問は
「日本にとって中国は脅威か?」でした。
そのときの私の答えは、概略、
「日本は有史以来、中国を侵略的な勢力と見たことはあまりない。13世紀の元寇はモンゴル王朝だった。日本は文字を始めとする文化を中国に負うている。戦前まで、日本の旧エリートは中国文化の影響下で育っているから、中国を武の国としてより、文の国と見ており、日清戦争当時をのぞいて中国を脅威と感じては来なかった。しかし、戦後のアメリカによる民主化の中で育ったこれからのエリートは別だ。アメリカの影響を受けて現実主義的に国際政治を解釈する新しいエリートが台頭するようになれば、日本の中国に対する見方が変わり、中国を脅威として見るようになるだろう」というものでした。
21世紀に入り、改革開放の中国が経済的に急発展し、東シナ海、南シナ海で自己主張をするようになったいま改めて考えると、当時の私の考えは事態の半分しか見ていなかったという感があります。すなわち、中国の発展というダイナミックな展開を軽視していたのです。仮に日本の中国観が、私の考えた旧エリート的なものにとどまっていたとしても、最近の中国の急発展に伴う強烈な自己主張は、それだけで「脅威」としての現実性を強めていると考えざるをえないようです。
その外的な現れは中国の軍拡であり、内的な現れは、中国国内で強まっている内圧に起因する膨張指向だと私は考えます。内圧は猛烈な競争社会になったことによるもので、前2回の「2歳女児ひき逃げ、見殺し事件」でふれましたので、きょうは外的な問題について考えてみます。
1月1日の産経新聞のwebに興味深い記事が掲載されました。「防衛オフレコ放談」というコラムで、「日米安保破棄 公然と語られ始めた危機に処方箋はあるか」という刺激的なタイトルです。要約すると、「日本とりわけ沖縄が中国の弾道ミサイルの射程内に入ることで、米国にとって、日本が前進拠点としての安全性と効果すなわち米国にとっての日本の安全保障、世界戦略上の価値を失いつつある」ということです。「放談」と銘打っていますし、産経新聞も本紙に掲載しないという点での留保はあるのですが、こうした補助線を引いてみると頭の体操にはなります。
この背景にあるのは、技術の進歩によるグローバル化は、軍事の面では経済や政治以上に進んでいるという現実です。有史以来たとえ中国が地球一の帝国であったときでも、海を隔てていただけで、中国の軍事力は日本にとって脅威ではありませんでした。しかし、第二次世界大戦後、とりわけ冷戦終結後、軍事技術が急速に進歩し、中国にそれを装備できる経済力が備わったことによって、事態は一変しました。中国の意図はともかく、目の前に隠しようもなく、あからさまに存在するようになった強大な軍事力は、それだけで客観的脅威です。これに「防衛オフレコ放談」の補助線を加えてみると、「中国の軍拡が進む中で、仮に日本周辺が戦場になるような事態に立ち至ったとき、アメリカが自国の本土に中国の大陸間弾道弾の雨を浴びることを覚悟してまで、日本やその周辺の友好国を守るか?」という疑問が成り立つことになります。
この疑問は、1980年代の欧州中距離核ミサイル(INF)問題を想起させます。東西冷戦の最前線国家であった当時の東西両ドイツでのもっとも深刻な問題は、米ソの冷戦が熱戦に進展した場合、米ソが欧州だけを戦場に中距離核ミサイルを撃ちあうだけで戦争が終わるというシナリオでした。相互確証破壊(MAD)を回避して米ソは大陸間弾道弾を撃ちあわず、米ソ双方の本土は保全されるが、欧州とりわけドイツは核の焦土Euroshima(オイロシマ ヨーロッパとヒロシマの合成語)になるという恐怖でした。この結果、ヨーロッパを反核平和運動が席巻したのですが、歴史は幸いにその方向には進みませんでした。米ソは長い交渉の結果、相互に中距離核ミサイルを廃棄しただけでなく、ソ連自体が消滅したため、核の焦土化の前提が消えてしまったからです。
それでも、ヨーロッパから核兵器は消えていません。北大西洋条約機構(NATO)もロシアも依然として抑止力として核は削減しても、維持しています。「核廃絶をめざす」と述べたオバマ米大統領のプラハ演説も「近い将来、それが実現するとは思わない」との留保がついていました。
ヨーロッパに比べると、東アジアの安全保障状況はもっと原始的です。中国は自国の核は「自衛目的」であり、先制不使用と、非核兵器保有国に核兵器を使用しないこと、核兵器による威嚇を行わないことを約束していますが、その一方で中国は核兵器の近代化を進めており、東アジアには具体的な核軍縮交渉の枠組みは存在しません。
1月25日付の朝日新聞朝刊3面の「中国軍解剖」シリーズ「南シナ海聖域化せよ」は現実に進行している中国の軍拡を赤裸々に描いています。21世紀のいま、熱戦が近い将来に起きると考えるのは非現実的かもしれませんが、軍事が外交や権益拡大の裏打ちになるという現実には変わりはありません。米欧日が経済危機に瀕し、基礎体力を失いつつあるいま、中国をどう見るか、そして日本がアジア太平洋地域で安全と平和そして私たちの基本的価値をどう守っていくかという大戦略を考える必要は日増しに大きくなっていきます。
「日本にとって中国は脅威か?」でした。
そのときの私の答えは、概略、
「日本は有史以来、中国を侵略的な勢力と見たことはあまりない。13世紀の元寇はモンゴル王朝だった。日本は文字を始めとする文化を中国に負うている。戦前まで、日本の旧エリートは中国文化の影響下で育っているから、中国を武の国としてより、文の国と見ており、日清戦争当時をのぞいて中国を脅威と感じては来なかった。しかし、戦後のアメリカによる民主化の中で育ったこれからのエリートは別だ。アメリカの影響を受けて現実主義的に国際政治を解釈する新しいエリートが台頭するようになれば、日本の中国に対する見方が変わり、中国を脅威として見るようになるだろう」というものでした。
21世紀に入り、改革開放の中国が経済的に急発展し、東シナ海、南シナ海で自己主張をするようになったいま改めて考えると、当時の私の考えは事態の半分しか見ていなかったという感があります。すなわち、中国の発展というダイナミックな展開を軽視していたのです。仮に日本の中国観が、私の考えた旧エリート的なものにとどまっていたとしても、最近の中国の急発展に伴う強烈な自己主張は、それだけで「脅威」としての現実性を強めていると考えざるをえないようです。
その外的な現れは中国の軍拡であり、内的な現れは、中国国内で強まっている内圧に起因する膨張指向だと私は考えます。内圧は猛烈な競争社会になったことによるもので、前2回の「2歳女児ひき逃げ、見殺し事件」でふれましたので、きょうは外的な問題について考えてみます。
1月1日の産経新聞のwebに興味深い記事が掲載されました。「防衛オフレコ放談」というコラムで、「日米安保破棄 公然と語られ始めた危機に処方箋はあるか」という刺激的なタイトルです。要約すると、「日本とりわけ沖縄が中国の弾道ミサイルの射程内に入ることで、米国にとって、日本が前進拠点としての安全性と効果すなわち米国にとっての日本の安全保障、世界戦略上の価値を失いつつある」ということです。「放談」と銘打っていますし、産経新聞も本紙に掲載しないという点での留保はあるのですが、こうした補助線を引いてみると頭の体操にはなります。
この背景にあるのは、技術の進歩によるグローバル化は、軍事の面では経済や政治以上に進んでいるという現実です。有史以来たとえ中国が地球一の帝国であったときでも、海を隔てていただけで、中国の軍事力は日本にとって脅威ではありませんでした。しかし、第二次世界大戦後、とりわけ冷戦終結後、軍事技術が急速に進歩し、中国にそれを装備できる経済力が備わったことによって、事態は一変しました。中国の意図はともかく、目の前に隠しようもなく、あからさまに存在するようになった強大な軍事力は、それだけで客観的脅威です。これに「防衛オフレコ放談」の補助線を加えてみると、「中国の軍拡が進む中で、仮に日本周辺が戦場になるような事態に立ち至ったとき、アメリカが自国の本土に中国の大陸間弾道弾の雨を浴びることを覚悟してまで、日本やその周辺の友好国を守るか?」という疑問が成り立つことになります。
この疑問は、1980年代の欧州中距離核ミサイル(INF)問題を想起させます。東西冷戦の最前線国家であった当時の東西両ドイツでのもっとも深刻な問題は、米ソの冷戦が熱戦に進展した場合、米ソが欧州だけを戦場に中距離核ミサイルを撃ちあうだけで戦争が終わるというシナリオでした。相互確証破壊(MAD)を回避して米ソは大陸間弾道弾を撃ちあわず、米ソ双方の本土は保全されるが、欧州とりわけドイツは核の焦土Euroshima(オイロシマ ヨーロッパとヒロシマの合成語)になるという恐怖でした。この結果、ヨーロッパを反核平和運動が席巻したのですが、歴史は幸いにその方向には進みませんでした。米ソは長い交渉の結果、相互に中距離核ミサイルを廃棄しただけでなく、ソ連自体が消滅したため、核の焦土化の前提が消えてしまったからです。
それでも、ヨーロッパから核兵器は消えていません。北大西洋条約機構(NATO)もロシアも依然として抑止力として核は削減しても、維持しています。「核廃絶をめざす」と述べたオバマ米大統領のプラハ演説も「近い将来、それが実現するとは思わない」との留保がついていました。
ヨーロッパに比べると、東アジアの安全保障状況はもっと原始的です。中国は自国の核は「自衛目的」であり、先制不使用と、非核兵器保有国に核兵器を使用しないこと、核兵器による威嚇を行わないことを約束していますが、その一方で中国は核兵器の近代化を進めており、東アジアには具体的な核軍縮交渉の枠組みは存在しません。
1月25日付の朝日新聞朝刊3面の「中国軍解剖」シリーズ「南シナ海聖域化せよ」は現実に進行している中国の軍拡を赤裸々に描いています。21世紀のいま、熱戦が近い将来に起きると考えるのは非現実的かもしれませんが、軍事が外交や権益拡大の裏打ちになるという現実には変わりはありません。米欧日が経済危機に瀕し、基礎体力を失いつつあるいま、中国をどう見るか、そして日本がアジア太平洋地域で安全と平和そして私たちの基本的価値をどう守っていくかという大戦略を考える必要は日増しに大きくなっていきます。
王悦ちゃん見殺し事件 中国的競争社会 - 2012.01.09 Mon
多くの人が「人助けをすると、損をする」と考え、「自分の子どもさえ守ればよい」と、わが子を守れなかった王悦ちゃんの両親を暗に非難さえしました。とはいえ、彼らも「人助けをしない自分」にやましさを感じているのは明らかでした。いったいどうしてこんなことになったのでしょうか?
早朝から、深夜まで中国の南半分を飛行機や高速鉄道を使って神風取材をしながら私は考え込みました。そのヒントを得たのは昨年7月の高速鉄道衝突脱線事故のその後を取材に行った浙江省温州で、でした。高速鉄道事故のその後は、1月6日にやはりテレビ朝日「スーパーJチャンネル」で放送しました。
いま温州の事故現場には何も起きなかったかのごとくです。慰霊碑が建てられたわけでもありません。むしろ「なかったこと」のようにさえ思える現状です。中国政府は年末に事項調査報告書をまとめましたが、原因究明は日本人の感覚からいえば、不十分です。高速鉄道に乗ってみると、中国人乗客は何もなかったかのように乗っています。温州は日本人にも温州みかんの名で知られる古くからの商業都市です。主要な輸出品は靴類、衣類、めがね、家具、革製品とか。たしかに驚くほどたくさんの靴製造会社がありました。しかし、目を奪ったのは温州の空港から市内へ向かう幹線道路を走っているときに見た光景です。信じがたいほどの数の工事現場。北京、上海の建設ラッシュのころは、それでも、すでに完成した都市構造、手付かずの広い地域がありましたが、温州では町の大部分が土木工事現場のようなすさまじさです。そのほとんどが高層マンションです。そして、すでに完成したと見られるもののほとんどがまだ空き家なのです。果たしてこれらのマンションが未入居のままになったら? それは中国の建設バブル、住宅バブルの崩壊です。中国人の成長の夢が崩壊するだけでなく、世界経済にも巨大な負担を負わせることにもなるでしょう。それでも、中国は突っ走るのです。
私が今回見た仏山、温州という地方都市は中国の行政単位としては「地級市」に分類されます。22の省、5つの自治区、4つの直轄市という最上層の行政区画と県、県級市という第三層に分類される行政区画の間に位づけられる地方都市です。地方都市といっても人口は数百万人あります。改革開放と経済膨張はいまや、上海や広州という超大都市だけでなく、「地級市」と呼ばれる地方都市に広がっているのです。それを示すなによりの証拠が高速鉄道網です。高速鉄道は北京、上海、広州といった超大都市を結ぶのに加え、省都級の都市、さらには地級市を結ぶ役割を果たしています。ジャーナリストの莫邦富さんのブログが書いているように、いまや経済発展はこうした地級市が主戦場となっているのです。ここでのヒト、モノ、カネの流れをスムーズかつスピードアップしなければ、13億人の中国人に先に豊かになった人の豊かさを押し広げるという小平のフィクションが崩壊し、経済成長そのものが挫折してしまいます。「成長を続け、それを地域的、階層的に拡大する」ことが中国共産党の支配の正当性となった以上、もうどうにもとまりません。仏山の巨大な問屋街、温州の建設ラッシュは、後ろを振り返らずに競争に勝ち抜いてとにかく前進するしかない中国経済の象徴でした。
一方、これを中国人ひとりひとりから見るとどういうことなのでしょうか。キーワードは「競争社会」だと考えます。実は、中国人が本格的な競争社会にさらされたのはほんの最近、つまり改革開放以降なのです。中国5000年の歴史を通じて、王朝支配の時代には、ほんの一握りのエリートには官吏登用試験の科挙など世界有数の厳しい競争がありましたが、庶民はそれには無縁でした。辛亥革命を経て中国共産党支配になっても競争が一部の党周辺のエリートに限られていたのは同じです。いや、それどころか、文化大革命は競争否定のユートピア的平等主義のイデオロギーさえ持っていました。それが、小平によって一転、13億の民がすべて突然すさまじい競争のスタートラインに並ばされたのが改革開放です。
1978年、日本を訪問し、東海道新幹線に乗った小平氏
「後ろから、だれかが鞭を持って、私を駆り立てているみたいだ」といった。
競争社会は日本でも同じだと考える方もいるでしょう。しかし、現代中国の競争社会は2つの点で日本のそれよりもはるかに過酷です。日本でも、明治維新によって競争社会が始まったのですが、全国民を巻き込む本格的な競争社会が始まったのは敗戦後です。戦前の日本はゆっくりとした競争社会の助走期間とも考えられます。加えて、日本が競争社会に入ったころは経済のグローバル化はいまと比べればゆっくり進んでいました。しかし、中国が競争社会に突入したこの四半世紀というものは、経済発展の速度は比べものにならないほど急速です。まさに「ドッグイヤー」なのです。突然競争に参加しなければならなくなった13億の民。おまけに、豊かさの面でも、社会的地位の面でも、いま浮かび上がらなければ、将来回復が不可能なほどに、社会全体の発展速度が早いのです。スタートラインから我勝ちに走り出しているのです。転ぶものも出てきます。でも、転んだ人にかまっていたら、自分が損をします。自分だけではない。一家眷属、子々孫々までハンディを背負うことになってしまうかもしれないとしたら、なおさら人助けなどに、かかずらってはいられないでしょう。日本で受験競争が熾烈を極めたころの、いわゆる教育ママのメンタリティに近いものがあります。しかし、大きく違うのはその競争のスケールと程度の甚だしさです。「王悦ちゃん見殺し事件」はこうした社会風潮の中で起きました。
早朝から、深夜まで中国の南半分を飛行機や高速鉄道を使って神風取材をしながら私は考え込みました。そのヒントを得たのは昨年7月の高速鉄道衝突脱線事故のその後を取材に行った浙江省温州で、でした。高速鉄道事故のその後は、1月6日にやはりテレビ朝日「スーパーJチャンネル」で放送しました。
いま温州の事故現場には何も起きなかったかのごとくです。慰霊碑が建てられたわけでもありません。むしろ「なかったこと」のようにさえ思える現状です。中国政府は年末に事項調査報告書をまとめましたが、原因究明は日本人の感覚からいえば、不十分です。高速鉄道に乗ってみると、中国人乗客は何もなかったかのように乗っています。温州は日本人にも温州みかんの名で知られる古くからの商業都市です。主要な輸出品は靴類、衣類、めがね、家具、革製品とか。たしかに驚くほどたくさんの靴製造会社がありました。しかし、目を奪ったのは温州の空港から市内へ向かう幹線道路を走っているときに見た光景です。信じがたいほどの数の工事現場。北京、上海の建設ラッシュのころは、それでも、すでに完成した都市構造、手付かずの広い地域がありましたが、温州では町の大部分が土木工事現場のようなすさまじさです。そのほとんどが高層マンションです。そして、すでに完成したと見られるもののほとんどがまだ空き家なのです。果たしてこれらのマンションが未入居のままになったら? それは中国の建設バブル、住宅バブルの崩壊です。中国人の成長の夢が崩壊するだけでなく、世界経済にも巨大な負担を負わせることにもなるでしょう。それでも、中国は突っ走るのです。
私が今回見た仏山、温州という地方都市は中国の行政単位としては「地級市」に分類されます。22の省、5つの自治区、4つの直轄市という最上層の行政区画と県、県級市という第三層に分類される行政区画の間に位づけられる地方都市です。地方都市といっても人口は数百万人あります。改革開放と経済膨張はいまや、上海や広州という超大都市だけでなく、「地級市」と呼ばれる地方都市に広がっているのです。それを示すなによりの証拠が高速鉄道網です。高速鉄道は北京、上海、広州といった超大都市を結ぶのに加え、省都級の都市、さらには地級市を結ぶ役割を果たしています。ジャーナリストの莫邦富さんのブログが書いているように、いまや経済発展はこうした地級市が主戦場となっているのです。ここでのヒト、モノ、カネの流れをスムーズかつスピードアップしなければ、13億人の中国人に先に豊かになった人の豊かさを押し広げるという小平のフィクションが崩壊し、経済成長そのものが挫折してしまいます。「成長を続け、それを地域的、階層的に拡大する」ことが中国共産党の支配の正当性となった以上、もうどうにもとまりません。仏山の巨大な問屋街、温州の建設ラッシュは、後ろを振り返らずに競争に勝ち抜いてとにかく前進するしかない中国経済の象徴でした。
一方、これを中国人ひとりひとりから見るとどういうことなのでしょうか。キーワードは「競争社会」だと考えます。実は、中国人が本格的な競争社会にさらされたのはほんの最近、つまり改革開放以降なのです。中国5000年の歴史を通じて、王朝支配の時代には、ほんの一握りのエリートには官吏登用試験の科挙など世界有数の厳しい競争がありましたが、庶民はそれには無縁でした。辛亥革命を経て中国共産党支配になっても競争が一部の党周辺のエリートに限られていたのは同じです。いや、それどころか、文化大革命は競争否定のユートピア的平等主義のイデオロギーさえ持っていました。それが、小平によって一転、13億の民がすべて突然すさまじい競争のスタートラインに並ばされたのが改革開放です。
1978年、日本を訪問し、東海道新幹線に乗った小平氏
「後ろから、だれかが鞭を持って、私を駆り立てているみたいだ」といった。
競争社会は日本でも同じだと考える方もいるでしょう。しかし、現代中国の競争社会は2つの点で日本のそれよりもはるかに過酷です。日本でも、明治維新によって競争社会が始まったのですが、全国民を巻き込む本格的な競争社会が始まったのは敗戦後です。戦前の日本はゆっくりとした競争社会の助走期間とも考えられます。加えて、日本が競争社会に入ったころは経済のグローバル化はいまと比べればゆっくり進んでいました。しかし、中国が競争社会に突入したこの四半世紀というものは、経済発展の速度は比べものにならないほど急速です。まさに「ドッグイヤー」なのです。突然競争に参加しなければならなくなった13億の民。おまけに、豊かさの面でも、社会的地位の面でも、いま浮かび上がらなければ、将来回復が不可能なほどに、社会全体の発展速度が早いのです。スタートラインから我勝ちに走り出しているのです。転ぶものも出てきます。でも、転んだ人にかまっていたら、自分が損をします。自分だけではない。一家眷属、子々孫々までハンディを背負うことになってしまうかもしれないとしたら、なおさら人助けなどに、かかずらってはいられないでしょう。日本で受験競争が熾烈を極めたころの、いわゆる教育ママのメンタリティに近いものがあります。しかし、大きく違うのはその競争のスケールと程度の甚だしさです。「王悦ちゃん見殺し事件」はこうした社会風潮の中で起きました。
人助けをすると損をする 中国社会のひずみ - 2012.01.07 Sat
年末に中国を訪れました。前回訪れたのは北京オリンピックの以前の2004年ですから、もう8年前で
す。必ずいわれたのは「中国は1年たったらまったく変貌する。どんどんあなたの知っている中国ではなくなっていきますよ」ということでした。2004年は北京オリンピックと上海APECを控えた再開発ブームの真っ最中。北京では胡同が壊されていくのを惜しみ、上海では、周辺の古い住宅地がすべて取り壊された中にポツンと残された道観(道教のお寺)を訪れ、悲しい思いをしたものです。子どものころから、西遊記や三国志を通じて中国の歴史、文化に親しみ、道教やチベット仏教そして京劇のファンだった私には、東アジアの文化の源泉である中国の(私にとっての)よき面が失われていくのは残念なことでした。
上海の白雲観 ポツンと残されていたこの道観はのちに、移築されきれいにされたとのことです。
しかし、コミュニティとのつながりはどうなったのでしょうか?
しかし、それは遠く離れ、あまり直接の関わりのない異国人の勝手な感傷です。改革解放以前の貧しかった中国人が、私たちが豊かで安全な生活をめざして努力してきたのと同様に、「坂の上の雲」をめざすことを悲しむのも身勝手というものです。他方、中国が日本を追い越して世界第2の経済大国になったいま、中国の急成長を無条件で祝福し、歓迎できるかというと、そうでもなくなってきた感じがします。年末にテレビ朝日「スーパーJチャンネル」の取材で、北京、上海以外のこれまで足を踏み入れたことのない都市を訪れて、痛切に感じました。
それは昨年10月13日に起き、世界を驚かせた「2歳女児ひき逃げ見殺し事件」の取材で行った仏山です。車にひかれ、路上に血だらけになって倒れた2歳の女の子・王悦ちゃんを、もう一台の車がひき逃げし、王悦ちゃんのそばを18人もの人が助けもせずに通りすぎた衝撃的なできごとです。事件はyoutubeで世界に広がりました。「なぜこんなことがおきたのだろうか?」。日本での反応は大きく二つに別れていたようです。「経済成長のひずみの結果だ」という見方と、中国嫌いの人々の「やっぱり中国人は!」というものでした。後者の中国嫌いの人の反応はあまり真剣に追及する価値はなさそうです。一方、「経済成長のひずみ」とはいったいどういうことなのか? この疑問が中国取材の動機でした。そして。この取材でその疑問に答える糸口のひとつを見つけることができたような気がしました。
仏山の事件現場は巨大な金属製品の問屋街です。その巨大さはたとえようもありません。仏山の問屋街に比べると、秋葉原の電気街は猫の額のようなものです。広州市の隣にあり、人口1000万人の広州市と連星のような関係にある人口600万人の仏山市は改革開放の中心である広州や深曙Vを商圏にするのみにとどまらず、長江以南の広大な地域の工業を支える問屋街だそうです。問屋街で働く人びとのほとんどは仏山育ちではなく、中国各地からの出稼ぎです。広東省の珠江デルタのまん真ん中なのに、人びとは本来の地元の言葉である広東語ではなく共通語である普通語で会話をします。共通語でないと意思が疎通できないほど地縁血縁が薄いのです。問屋街というと日本人は昔からの人々の濃いつながりを想定しますが、改革開放以後にできた仏山の問屋街にはそうしたミュニティはなく、人のつながりがまったく希薄なのです。でも、人のつながりが希薄になったのは中国だけではありません。それだけでは「助けなかった理由」はわかりません。
見殺しにした人たちをはじめ、近隣の人々を取材するうちに、だれもがあげる「助けなかった理由」に行き当たりました。ときは2006年。仏山から遠く離れた南京でそれはおきました。停留所でバスからおりるとき、転んで骨折した65歳の女性を助け起こし、病院に連れていった27歳の男性が逆に加害者として訴えられ、中国としては巨額の損害賠償を払わされたという事件です。裁判所の判決の理由は「そんなこと(助けること)は普通しない。助けたのは男性にやましいところがあったからに違いない」という信じがたいものでした。
急遽南京に飛び、取材してみると、「人助けをした人が逆に訴えられる」という事件が南京だけでなく、中国各地で多発していることがわかりました。仏山で、南京で、王悦ちゃん事件に関わりのない人たちをふくめて「助けたいのはやまやまだけど、そんなことをして自分に災難が降りかかってきてはかなわない」と口をそろえたのはこのためでした。
人助けをした人が逆に訴えられる事件が各地で起きた
王悦ちゃんの場合は、19人目に通りかかった廃品回収の女性が王悦ちゃんを助け起こし、母親を呼びました。この女性には失われた「人の心」があったのです。しかし、8 日後に亡くなった王悦ちゃんの両親とこの女性にその後起こったのは「この町にいられなくなる」というこれまた信じがたいでできごとでした。地元のテレビが事件を報道すると、ひき逃げをした2台の車の運転手は逮捕され、処罰されました。ところが、両親と助けた女性には、ネットや匿名の電話で「カネ目当てなんだろう」という非難・中傷が殺到したというのです。私たちのスタッフは助けた女性の携帯電話番号を入手し、息子さんの話を聞くことはできましたが、ついに、「人の心を持った」この女性の話を聞くことはできませんでした。
取材をした多くの人が「人助けをすると、損をする」と考えるばかりか、「自分の子どもさえ守ればよい」と、我が子を守れなかった王悦ちゃんの両親を暗に非難するのでした。(つづく)
す。必ずいわれたのは「中国は1年たったらまったく変貌する。どんどんあなたの知っている中国ではなくなっていきますよ」ということでした。2004年は北京オリンピックと上海APECを控えた再開発ブームの真っ最中。北京では胡同が壊されていくのを惜しみ、上海では、周辺の古い住宅地がすべて取り壊された中にポツンと残された道観(道教のお寺)を訪れ、悲しい思いをしたものです。子どものころから、西遊記や三国志を通じて中国の歴史、文化に親しみ、道教やチベット仏教そして京劇のファンだった私には、東アジアの文化の源泉である中国の(私にとっての)よき面が失われていくのは残念なことでした。
上海の白雲観 ポツンと残されていたこの道観はのちに、移築されきれいにされたとのことです。
しかし、コミュニティとのつながりはどうなったのでしょうか?
しかし、それは遠く離れ、あまり直接の関わりのない異国人の勝手な感傷です。改革解放以前の貧しかった中国人が、私たちが豊かで安全な生活をめざして努力してきたのと同様に、「坂の上の雲」をめざすことを悲しむのも身勝手というものです。他方、中国が日本を追い越して世界第2の経済大国になったいま、中国の急成長を無条件で祝福し、歓迎できるかというと、そうでもなくなってきた感じがします。年末にテレビ朝日「スーパーJチャンネル」の取材で、北京、上海以外のこれまで足を踏み入れたことのない都市を訪れて、痛切に感じました。
それは昨年10月13日に起き、世界を驚かせた「2歳女児ひき逃げ見殺し事件」の取材で行った仏山です。車にひかれ、路上に血だらけになって倒れた2歳の女の子・王悦ちゃんを、もう一台の車がひき逃げし、王悦ちゃんのそばを18人もの人が助けもせずに通りすぎた衝撃的なできごとです。事件はyoutubeで世界に広がりました。「なぜこんなことがおきたのだろうか?」。日本での反応は大きく二つに別れていたようです。「経済成長のひずみの結果だ」という見方と、中国嫌いの人々の「やっぱり中国人は!」というものでした。後者の中国嫌いの人の反応はあまり真剣に追及する価値はなさそうです。一方、「経済成長のひずみ」とはいったいどういうことなのか? この疑問が中国取材の動機でした。そして。この取材でその疑問に答える糸口のひとつを見つけることができたような気がしました。
仏山の事件現場は巨大な金属製品の問屋街です。その巨大さはたとえようもありません。仏山の問屋街に比べると、秋葉原の電気街は猫の額のようなものです。広州市の隣にあり、人口1000万人の広州市と連星のような関係にある人口600万人の仏山市は改革開放の中心である広州や深曙Vを商圏にするのみにとどまらず、長江以南の広大な地域の工業を支える問屋街だそうです。問屋街で働く人びとのほとんどは仏山育ちではなく、中国各地からの出稼ぎです。広東省の珠江デルタのまん真ん中なのに、人びとは本来の地元の言葉である広東語ではなく共通語である普通語で会話をします。共通語でないと意思が疎通できないほど地縁血縁が薄いのです。問屋街というと日本人は昔からの人々の濃いつながりを想定しますが、改革開放以後にできた仏山の問屋街にはそうしたミュニティはなく、人のつながりがまったく希薄なのです。でも、人のつながりが希薄になったのは中国だけではありません。それだけでは「助けなかった理由」はわかりません。
見殺しにした人たちをはじめ、近隣の人々を取材するうちに、だれもがあげる「助けなかった理由」に行き当たりました。ときは2006年。仏山から遠く離れた南京でそれはおきました。停留所でバスからおりるとき、転んで骨折した65歳の女性を助け起こし、病院に連れていった27歳の男性が逆に加害者として訴えられ、中国としては巨額の損害賠償を払わされたという事件です。裁判所の判決の理由は「そんなこと(助けること)は普通しない。助けたのは男性にやましいところがあったからに違いない」という信じがたいものでした。
急遽南京に飛び、取材してみると、「人助けをした人が逆に訴えられる」という事件が南京だけでなく、中国各地で多発していることがわかりました。仏山で、南京で、王悦ちゃん事件に関わりのない人たちをふくめて「助けたいのはやまやまだけど、そんなことをして自分に災難が降りかかってきてはかなわない」と口をそろえたのはこのためでした。
人助けをした人が逆に訴えられる事件が各地で起きた
王悦ちゃんの場合は、19人目に通りかかった廃品回収の女性が王悦ちゃんを助け起こし、母親を呼びました。この女性には失われた「人の心」があったのです。しかし、8 日後に亡くなった王悦ちゃんの両親とこの女性にその後起こったのは「この町にいられなくなる」というこれまた信じがたいでできごとでした。地元のテレビが事件を報道すると、ひき逃げをした2台の車の運転手は逮捕され、処罰されました。ところが、両親と助けた女性には、ネットや匿名の電話で「カネ目当てなんだろう」という非難・中傷が殺到したというのです。私たちのスタッフは助けた女性の携帯電話番号を入手し、息子さんの話を聞くことはできましたが、ついに、「人の心を持った」この女性の話を聞くことはできませんでした。
取材をした多くの人が「人助けをすると、損をする」と考えるばかりか、「自分の子どもさえ守ればよい」と、我が子を守れなかった王悦ちゃんの両親を暗に非難するのでした。(つづく)
清明上河図 中国文化外交の威力 - 2012.01.05 Thu
東京国立博物館の特別展「北京故宮博物院200選」を見てきました。初めて国外で展示された「清明上河図」(張択端)を見るためです。「清明上河図」は、北宋の都・開封(かいほう)=現在の河南省開封市=の光景を描いたもので、北京故宮博物館随一の「神品」といわれる大作です。詳しくは www.kokyu200.jp/をごらんください。
2008年の北京オリンピックで北京の町が様変わりする前に故宮博物院とりわけ「清明上河図」を見ておきたいと思い、3回北京に行き、故宮博物院をなめるように見たのですが、これまで「清明上河図」には対面できませんでした。北京でもたまにしか展示されないものですから、私ごときの都合に合わせてくれるわけもありません。半ばあきらめていました。ところが、「北京故宮博物院200選」の開催直前に出品が決まったとかで、「これは行かないわけにはいかない」と思い、足を運びました。
このような「清明上河図」ですから、この作品だけの観覧待ちの長蛇の行列ができています。最後尾に並んだ昼過ぎには「待ち時間210分」のプラカードが。日頃、レストランであれ、何であれ行列がきらいな私ですが、「清明上河図」だけは腰が痛くなるのもなんのその、まったく苦に思わず、素直に待ちました。幸い実際に待ったのは70分程度。こうした展覧会に多い高齢の方々もたいへん行儀よくお待ちでした。
いよいよ長さ6〜7メートルの大作の前に来ると、ガードマンが「立ち止まらないでください」と声をからします。ですから、落ち着いて鑑賞とはいきません。でも、見られるだけでもありがたいと、いつになく私も謙虚です。図録などで見てはいたのですが、殷賑を極めた開封の町が細密に描かれたさまは、ただただ感動するのみです。70分待ちもむだではありませんでした。
12巻のうち、2巻が出品された「康煕帝南巡図」は彩色もまだ鮮やかです。12月に取材に行った南京が描かれています。テレビ朝日「スーパーJチャンネル」で12月23日にオンエアした「2歳女児ひき逃げ見殺し事件」の中で私が立ちレポをした「水西門」界隈もありますので、ひときわ興味深いものでした。そのほかもいずれも名品です。なかでも刺繍は目を奪います。「刺繍三羊開泰図」の色彩と細密さは圧巻です。乾隆帝の装束「孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繡」はその豪華さ。上海に行ったときに手に入れた蘇州の上等な刺繍(↓)でおなじみではありましたが、本物のすごさはまた別格です。
現代の蘇州刺繍による帝衣
私たち日本人にとって、中国の文化は長くあこがれの的でした。延々長蛇の列をものともしない高齢者の方たちも、こうした日本の伝統の中で生きてきた人々ですから、すなおに感動していたと思います。神品の「清明上河図」の出品が急遽決まったということが主催者のセールストークでなく、事実だとしたら、最近顕著になった中国包囲網を意識した中国の「パンダ外交」ならぬ「清明上河図外交」か?と勘ぐらせるところがありますが、いずれにせよ、日中国交回復40年という節目に芸術・文化という中国のもっともすばらしい面を見せてくれていることはまちがいありません。尖閣諸島や南シナ海をしばし忘れさせることができるとは、芸術外交の威力は大したものです。
国立博物館の展示のしかたも上質でした。でも、ひとつだけ混乱がみられました。「清明上河図」が展示されている部屋では、長時間待って絵を間近で見る人の列と、前の展示室から次の展示室に移動する人の列が並行して設けられています。たしかに、「清明上河図」の前に巨大な渋滞ができるのを避けるためにはよい方法ですが、2つのルートの動線が何か所かで交差しています。このため、同じ部屋の中の「清明上河図」から離れた通路を通って、階段ホールまで行って長い列の後ろに並ぶというシステムがわかりにくく、鑑賞客が戸惑っていました。たまに、この混乱を利用し、ズルをして紛れ込もうとする不届き者もいてスタッフがてんてこ舞いなのがかわいそうでした。主催者にはもう少しアタマを使ってもらいたいと思いました。
2008年の北京オリンピックで北京の町が様変わりする前に故宮博物院とりわけ「清明上河図」を見ておきたいと思い、3回北京に行き、故宮博物院をなめるように見たのですが、これまで「清明上河図」には対面できませんでした。北京でもたまにしか展示されないものですから、私ごときの都合に合わせてくれるわけもありません。半ばあきらめていました。ところが、「北京故宮博物院200選」の開催直前に出品が決まったとかで、「これは行かないわけにはいかない」と思い、足を運びました。
このような「清明上河図」ですから、この作品だけの観覧待ちの長蛇の行列ができています。最後尾に並んだ昼過ぎには「待ち時間210分」のプラカードが。日頃、レストランであれ、何であれ行列がきらいな私ですが、「清明上河図」だけは腰が痛くなるのもなんのその、まったく苦に思わず、素直に待ちました。幸い実際に待ったのは70分程度。こうした展覧会に多い高齢の方々もたいへん行儀よくお待ちでした。
いよいよ長さ6〜7メートルの大作の前に来ると、ガードマンが「立ち止まらないでください」と声をからします。ですから、落ち着いて鑑賞とはいきません。でも、見られるだけでもありがたいと、いつになく私も謙虚です。図録などで見てはいたのですが、殷賑を極めた開封の町が細密に描かれたさまは、ただただ感動するのみです。70分待ちもむだではありませんでした。
12巻のうち、2巻が出品された「康煕帝南巡図」は彩色もまだ鮮やかです。12月に取材に行った南京が描かれています。テレビ朝日「スーパーJチャンネル」で12月23日にオンエアした「2歳女児ひき逃げ見殺し事件」の中で私が立ちレポをした「水西門」界隈もありますので、ひときわ興味深いものでした。そのほかもいずれも名品です。なかでも刺繍は目を奪います。「刺繍三羊開泰図」の色彩と細密さは圧巻です。乾隆帝の装束「孔雀翎地真珠珊瑚雲龍文刺繡」はその豪華さ。上海に行ったときに手に入れた蘇州の上等な刺繍(↓)でおなじみではありましたが、本物のすごさはまた別格です。
現代の蘇州刺繍による帝衣
私たち日本人にとって、中国の文化は長くあこがれの的でした。延々長蛇の列をものともしない高齢者の方たちも、こうした日本の伝統の中で生きてきた人々ですから、すなおに感動していたと思います。神品の「清明上河図」の出品が急遽決まったということが主催者のセールストークでなく、事実だとしたら、最近顕著になった中国包囲網を意識した中国の「パンダ外交」ならぬ「清明上河図外交」か?と勘ぐらせるところがありますが、いずれにせよ、日中国交回復40年という節目に芸術・文化という中国のもっともすばらしい面を見せてくれていることはまちがいありません。尖閣諸島や南シナ海をしばし忘れさせることができるとは、芸術外交の威力は大したものです。
国立博物館の展示のしかたも上質でした。でも、ひとつだけ混乱がみられました。「清明上河図」が展示されている部屋では、長時間待って絵を間近で見る人の列と、前の展示室から次の展示室に移動する人の列が並行して設けられています。たしかに、「清明上河図」の前に巨大な渋滞ができるのを避けるためにはよい方法ですが、2つのルートの動線が何か所かで交差しています。このため、同じ部屋の中の「清明上河図」から離れた通路を通って、階段ホールまで行って長い列の後ろに並ぶというシステムがわかりにくく、鑑賞客が戸惑っていました。たまに、この混乱を利用し、ズルをして紛れ込もうとする不届き者もいてスタッフがてんてこ舞いなのがかわいそうでした。主催者にはもう少しアタマを使ってもらいたいと思いました。
後ろ向きの一日 レコードを洗う - 2012.01.02 Mon
新年2日目は穏やかな日でした。二階の窓からは富士山が見えます。元日のマリス・ヤンソンス+ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの余韻で、いささか追憶の一日を過ごしました。
マリス・ヤンソンスはアルヴィド・ヤンソンスの息子です。父アルヴィドはラトヴィア人の指揮者で(昨日、マリスをロシア人と書いたのは誤りです)、1960年代によく来日し、東京交響楽団などを指揮したのをテレビでよく見ていました。息子マリスはいまやスター指揮者で、CDなどではおなじみですが、1990年代のはじめに朝日新聞の特派員として駐在したウィーンの思い出とアルヴィドの思い出があいまってノスタルジアをかき立てられたのです。
父アルヴィド・ヤンソンスのレコード
ニューイヤーコンサートの演目だったツィーラーの「ウィーンの市民(Wiener Bürger)から、この曲が入っているハンス・クナッパーツブッシュのレコードを聞きたくなりました。「ウィーンの休日」という1975年の日本のロンドン盤です。このレコードにはクナッパーツブッシュの秀品といわれるカレル・コムザークの「バーデン娘(Badner Mädln)」が入っています。「バーデン娘」は1960年代はじめごろ、フジテレビが放送していた午後の映画劇場のテーマに使われた曲ですから、このyoutubeを聴いてみれば、覚えている方もいるでしょう(ただし、高年者のみ)。
www.youtube.com/watch
クナッパーツブッシュの「ウィーンの休日」
日本ロンドン GT9036
何十回と聴いて、レコードはほこりだらけです。最近仕入れたVPIのレコードクリーナーでクリーニング。そうそう、もうひとつ、1980年代のはじめにドイツ・ケルンにいたころ予備として購入していたドイツTELDECのレコードも洗います。洗浄液にイソプロピルアルコールを使うので、冬の閉めきった部屋で使うと頭が痛くなってきますから、2枚が限度です。この種のレコードクリーナーにも思い出があります。20代のころ住んだ長野市に、「トーチク・ミジック」というよいレコード屋さんがありました。音楽好きの店員さん2人と仲良くなってよく通いました。7〜8年前に残念ながらこのお店はつぶれてしまいました。このお店が当時この種のレコードクリーナーを備えていたのです。VPIと違ってたぶんKeith Monksというもっと値の張るものでしたが、この効果は抜群でした。老い先も短いことだし、せめてレコードを気持ちよく聞きたいとVPIのクリーナーを入手しました。VPIのクリーナーも値が張りますが、並行輸入品は正規輸入品の半額でした。
VPI HW-16.5
効果は抜群です。すり減った日本ロンドン盤は多少厳しい。でも、あまり聴いていなかった独TELDEC盤は新品同様になりました。使っている装置は前にも書きましたが、35年前のプレーヤーとTANNOYのスピーカーです。ひとつ変わったのは、アンプ。35年前のaccuphaseがさすがにあやしくなったので、日本のTriodeという新進メーカーの三極管A級アンプTRV-A300SERに交換しました。このシステムが醸しだす音は、まさに古き良きウィーンの雰囲気です。
プラーターのリリパット鉄道
子ども時代から想像していたウィーン。現実に住むこともできました。ユーゴ内戦、北朝鮮の核疑惑と仕事は忙しかった中、たまの休日に幼い3人の子と通ったプラーターの公園と遊園地。映画「第三の男」の大観覧車はもちろん、ニューイヤーコンサートにも出てきた全長3キロもあるミニ鉄道リリパットは子どもたちのお気に入りでした。中には「白鳥の騎士」というアトラクションもありました。全長30メートルぐらい、幅1メートルぐらいの楕円形の水路を長さ1メートルぐらいの木造の粗末な白鳥のかたちをしたボートが人に引かれて回るだけの単純このうえないものですが、当時5歳だった次男がお気に入りで、毎回それに乗っていたものです。そんな20年前の思い出にひたって、お化粧を直した「バーデン娘」を堪能しました。レコードのタイトルも「ウィーンの休日」ですから。
クナッパーツブッシュとウィーン・フィル
独TELDEC 6.41767AH
一方、便利な世の中になったものです。カレル・コムザークとはどんな音楽家だったのか、wikipediaをひけばすぐにわかります。クナッパーツブッシュについてもです。昔は、レコードジャケットの裏面解説だけが頼り。でも、輸入盤の裏面解説を理解したくて、高校時代に一生懸命ドイツ語を勉強した甲斐がありました。レコードから聴こえる音に現実を忘れることもできましたし、レコードジャケットの裏面解説とあわせて想像を飛躍させることができたのも、文字と音だけだったテレビ時代以前の世代の特権だったような気がします。
そんなこんなで、日が落ちていこうとしています。さて、今夜は原稿書きで「書き初め」です。
マリス・ヤンソンスはアルヴィド・ヤンソンスの息子です。父アルヴィドはラトヴィア人の指揮者で(昨日、マリスをロシア人と書いたのは誤りです)、1960年代によく来日し、東京交響楽団などを指揮したのをテレビでよく見ていました。息子マリスはいまやスター指揮者で、CDなどではおなじみですが、1990年代のはじめに朝日新聞の特派員として駐在したウィーンの思い出とアルヴィドの思い出があいまってノスタルジアをかき立てられたのです。
父アルヴィド・ヤンソンスのレコード
ニューイヤーコンサートの演目だったツィーラーの「ウィーンの市民(Wiener Bürger)から、この曲が入っているハンス・クナッパーツブッシュのレコードを聞きたくなりました。「ウィーンの休日」という1975年の日本のロンドン盤です。このレコードにはクナッパーツブッシュの秀品といわれるカレル・コムザークの「バーデン娘(Badner Mädln)」が入っています。「バーデン娘」は1960年代はじめごろ、フジテレビが放送していた午後の映画劇場のテーマに使われた曲ですから、このyoutubeを聴いてみれば、覚えている方もいるでしょう(ただし、高年者のみ)。
www.youtube.com/watch
クナッパーツブッシュの「ウィーンの休日」
日本ロンドン GT9036
何十回と聴いて、レコードはほこりだらけです。最近仕入れたVPIのレコードクリーナーでクリーニング。そうそう、もうひとつ、1980年代のはじめにドイツ・ケルンにいたころ予備として購入していたドイツTELDECのレコードも洗います。洗浄液にイソプロピルアルコールを使うので、冬の閉めきった部屋で使うと頭が痛くなってきますから、2枚が限度です。この種のレコードクリーナーにも思い出があります。20代のころ住んだ長野市に、「トーチク・ミジック」というよいレコード屋さんがありました。音楽好きの店員さん2人と仲良くなってよく通いました。7〜8年前に残念ながらこのお店はつぶれてしまいました。このお店が当時この種のレコードクリーナーを備えていたのです。VPIと違ってたぶんKeith Monksというもっと値の張るものでしたが、この効果は抜群でした。老い先も短いことだし、せめてレコードを気持ちよく聞きたいとVPIのクリーナーを入手しました。VPIのクリーナーも値が張りますが、並行輸入品は正規輸入品の半額でした。
VPI HW-16.5
効果は抜群です。すり減った日本ロンドン盤は多少厳しい。でも、あまり聴いていなかった独TELDEC盤は新品同様になりました。使っている装置は前にも書きましたが、35年前のプレーヤーとTANNOYのスピーカーです。ひとつ変わったのは、アンプ。35年前のaccuphaseがさすがにあやしくなったので、日本のTriodeという新進メーカーの三極管A級アンプTRV-A300SERに交換しました。このシステムが醸しだす音は、まさに古き良きウィーンの雰囲気です。
プラーターのリリパット鉄道
子ども時代から想像していたウィーン。現実に住むこともできました。ユーゴ内戦、北朝鮮の核疑惑と仕事は忙しかった中、たまの休日に幼い3人の子と通ったプラーターの公園と遊園地。映画「第三の男」の大観覧車はもちろん、ニューイヤーコンサートにも出てきた全長3キロもあるミニ鉄道リリパットは子どもたちのお気に入りでした。中には「白鳥の騎士」というアトラクションもありました。全長30メートルぐらい、幅1メートルぐらいの楕円形の水路を長さ1メートルぐらいの木造の粗末な白鳥のかたちをしたボートが人に引かれて回るだけの単純このうえないものですが、当時5歳だった次男がお気に入りで、毎回それに乗っていたものです。そんな20年前の思い出にひたって、お化粧を直した「バーデン娘」を堪能しました。レコードのタイトルも「ウィーンの休日」ですから。
クナッパーツブッシュとウィーン・フィル
独TELDEC 6.41767AH
一方、便利な世の中になったものです。カレル・コムザークとはどんな音楽家だったのか、wikipediaをひけばすぐにわかります。クナッパーツブッシュについてもです。昔は、レコードジャケットの裏面解説だけが頼り。でも、輸入盤の裏面解説を理解したくて、高校時代に一生懸命ドイツ語を勉強した甲斐がありました。レコードから聴こえる音に現実を忘れることもできましたし、レコードジャケットの裏面解説とあわせて想像を飛躍させることができたのも、文字と音だけだったテレビ時代以前の世代の特権だったような気がします。
そんなこんなで、日が落ちていこうとしています。さて、今夜は原稿書きで「書き初め」です。





